高市氏自身の総裁選、および衆院選での誹謗中傷動画の作成と拡散問題

高市氏自身の総裁選、および衆院選での誹謗中傷動画の作成と拡散問題がやっと注目されている。テレビでほとんど無視をしていた問題だ。度重なる文春砲にやっと重い腰を起こしたテレビ。それでもマスコミはこの問題の裏にある危機をあまり報じない。選挙ではそれぐらいの誹謗中傷は日常のことだと考えているようだ。週刊誌がすっぱ抜いたこともあり、大した問題ではないと考えていたようだ。政治の不正や権力の歪み、奢りを追求することを忘れた大手ジャーナリストは、何もなかったようにニュース解説をしている。

法律には触れないし問題ないでしょうとたかを括っている。国民もそう感じている。彼女のしたことの罪の重さを、計ろうとしない。

高市氏は、政治家がすべき対話を放棄して、AIとネットという最新兵器を使って、選挙という民主主義の根幹を破壊した。さらに誹謗中傷により捏造された現実世界を正当化し、法を無意味なものにすると同時に、暴力を許容し蔓延させた。

最も公正であるべき選挙。候補者の経済状態の左右されず暴力に屈しない場であるべき選挙。市民の声は捏造され、歪められ、無視をされる。

彼女の行為は民主主義の破壊でしかない。いじめをする子供になんと言って諭すのだろう。暴言を吐くものが堂々としている。そんな世界を許容しろというのだろうか。

彼女の行為は暴力に他ならない。暴力によって何もかも気に食わないものは叩き壊す。これはもはや法律の問題ではない。もっと高次にある私たち日本人の倫理の問題なのだ。

高市氏は先日開催された「昭和100年記念式典」

高市氏は先日開催された「昭和100年記念式典」で「挑戦しない国に未来はありません。守るだけの政治に希望は生まれません」と力強くコメントそうです。子供たちの命を守ろうとしない姿勢。その代わりに役に立たない迎撃ミサイルをたくさん買い込んだ挙句、攻撃に転じようと武器開発に予算を割いている。「守る」とは?「挑戦」とは?言葉に騙されてはいけない。何を守りどのように攻撃をしようとしているのか?彼女と私たち市民との間には明らかに乖離/かいりがある。良いように解釈をしてはいけないのです。

世界の全ては解釈でできていると言ったのはニーチェ

世界の全ては解釈でできていると言ったのはニーチェだった。それは現象のことだと言ったのはフッサールだった。そして実存主義が存在そのものに対する先入観にメスを入れた。世界内存在は解釈でできている世界とそこに存在する個人の関係を示し、解釈そのもののことについてその成り立ちを示したのがハイデガーであり構造主義者なのだ。ところが科学哲学はそれらの思想と並走して今日に至っている。あくまでも個人を中心にした世界観を捨てることができずに科学の中とともに個人を分析している。

構造主義がアニミズムへと回帰していった理由は解釈の構造を明らかにしようとした結果なのだ。解釈が生まれる構造を明らかにしようとしたのだ。日本人にとって、ギリシャ人にとってそれは自然な営みにある。神話の世界には現象学の理念が広く散りばめられているからだ。全てに命があるというアニミズムは全てに神が宿ると解釈をした。それはまさに目の前に晒されたものを見ているのではなく解釈できるものを解釈してる。そこには神がいてその総体が世界なのだ。神は人からひとへと解釈が受けがれものではなく背後にある神を解釈しているのだ。見ているものはただの映像ではない。映像を映し出す神の光なのだ。それを見ていて見えている。知っているとは多くの先祖が導き出した神の姿なのだ。

4月16日、ローマ教皇レオ14世は

416日、ローマ教皇レオ14世は、訪問先のアフリカ・カメルーンで、世界は「一握りの暴君によって平和が荒らされ、荒廃している」と強く批判した。誰もが納得するものだが当の暴君たちには伝わらないようだ。明らかな国際法を無視して、アメリカは戦争を続けている。アメリカ国内では、毎日のように反戦デモが全米全土に広がっている。全く日本では報道されていない。反戦だけではない。反トランプデモが休日には当たり前の光景になっていると言う。都市のメインストリートに市民が集まりプラカードや横断幕を持って行進をする。失望していた民主主義の行く末を彼らの行動が救ってくれる。まだ捨てたものではないと。

19825月、フランスにミッテラン政権が誕生した。革新政権で若者たちの支持を得た末での勝利だった。パリはその喜びに酔った。勝利の決定を受けて多くの市民が喜びのあまり大通りに飛び出した。サンジェルマン通り、レーヌ道り、サン・ミッシェル通りなど車はクラクションを鳴らし喜んだ。渋滞する車の間を多くの市民が歌いながら行進をした。「ジスカールは去ったぞ!だからサンバを踊ろう!」汚職と腐敗にまみれた保守政権に苦しんだ市民。農村部では勝てなかったミッテランが奇跡的に勝利した喜びは、パリ市民にはこの上ないものだった。そんな中に私もいた。クラクションを鳴らす車の間を縫うように、歌いながらバスチーユに向かった。快晴の5月だった。

その頃、ヨーロッパ中でよく見かけるシールがあった。「ソリダリテ/連帯」を呼びかけるシールだった。世界中の労働者に団結も求めるシールで、ポーランドの共産党支配から自由を求めたワレサ書記長の呼びかけがヨーロッパ全土に伝わったものだ。市民の連帯。それは国の体制をも変えるものだった。当時の日本は連帯を支持した。そして極東から欧米やアジアの連帯を支持し支援をした。日本の労働組合がその中心になっていた。

今、連帯を求めるなら「平和」だと思う。連帯の力を軽視する暴君が「世界戦争」へと舵を切っている。それを敏感に反応しているアメリカ市民がいる。EUの指導者もいる。日本もアジアの中心となって「平和」を求め連帯すべきだと思う。ミサイルを作り、武器を輸出し、「MADE IN JAPAN」と刻印された兵器が多くの子供たち、市民を殺害することを認めるべきではない。平和憲法の元に育ったものならその意義と尊さを世界に伝えることができるはずだ。

分析哲学の基本は

分析哲学の基本は客観的な世界を前提にしているのではない。客観的な世界と言われる世界そのものがなんであるかを示すための方法なのだ。客観的世界はその言葉とは裏腹に、解釈された世界のことである。それ自体、自己矛盾を孕んでいる。結局、解釈された世界も客観的世界も同じものであるという一見矛盾した世界観がそこにある。それは同じ世界のことなのだ。観念的世界、現実的世界。その言葉が発せられる時、すでに全て解釈された世界のことなのだ。解釈できるということ自体、すでにその背景にある解釈された世界が大前提なのだ。解釈に解釈を加えること。それこそが分析に他ならない。解釈されると同時に解釈されないものが存在する。その存在こそが純粋存在に他ならない。純粋存在はいつか解釈によってその姿を客観的世界に取り入れられる。それでも解釈によって、解釈されなかったものが純粋存在としてい続けるのだ。

解釈はいかにしてなるのか。その価値を知ることがその時の現実存在、客観的存在を理解することになる。

社会契約論

 

社会契約論

 

AIの知能が人間を超えた時に人間にとっての危機が生まれると哲学者が言った。

人間の耳や手が少しずつデジタル機器にとってかわり遂に不死の体を手に入れる。ただ、デジタル化された身体を持って不死でいることを望むだろうかというのが今の哲学者の見解だ。

 

ルソーの全体と個人の問題はとても有意義だ。個人の前に全体があるとルソーは考えた。全体の中に個人が生まれている。社会契約論は個人が全体と対等に契約することを言ったのだ。

社会が先か個人が先かという問題がこの図式から問題になった。ただルソーの世界観はそんな問題以上のお重大な問題を示している。彼はすでに現象学的な視点を示したのだ。実存主義と言っても過言ではない。

 

 

 

 

AIは暴走する。

西洋で1800年代から頻繁に物語に登場するのが悪魔だ。ゲーテのファーストに登場する。日本には悪魔はいなかった。八百万の神のものでは悪魔はいない。いるのは妖怪などで悪を吹聴するものではない。妖怪も神なのだ。また登場するがストラヴィンスキーが作曲した『兵士の物語』は、1918に発表された、朗読演劇バレエを総合した舞台作品[1]。ロシアの民話をもとにシャルル・フェルディナン・ラミュが台本を制作し、イーゴリ・ストラヴィンスキーが作曲した。

 

 

 

 

AIは暴走する。人間がプログラミングするのだからその恐れはないとなぜ言えるだろうか。人間より、より正確により効率よくより冷酷に大量殺戮を実行をする。賄賂も必要ない。名誉も利害も必要としないAIはもしかすると冷酷な政治家よりも正しい選択をするかもしれない。

 

 

限られた知識の中で、AIは限られた倫理観を余儀なくされている。限られたというのはたった1人の倫理観でもAIは鵜呑みにするということだ。それは倫理観はAI自身で構築できないという意味で、倫理観はないと言っても良い。AIに罰を与えることなど無意味だからだ。同時に喜びもない。それが返って不正を産まないクリーンな政治家にもなりうる。

そのような世界の到来を目撃する前に、人類は戦争によって破滅してるかもしれない。そうならないためにも平和のメカニズムを考えなくてはいけない。