本論/世界とは何か

本論/世界とは何か

「世界」は一つではない。「世界」は人の数だけ、生き物の数だけある。「世界」はそのように見えているものであり、そのように見ようとしているのだ。それは私が。それはあなたが。私の見ている世界はあなたの見ている世界とは違う。全く同じだと証明できない。そこには観察者の問題が横たわる。私の見えてる世界を誰も見ることができない。見ることができるのは私だけなのだ。私の見えてる世界を客観的なものとして取り出すことができない以上、あなたの世界と比較することは不可能なのだ。たとへ、取り出したとしてもそれを見る私は私の解釈による世界の中に取り込まれてしまう。どこまでも私の世界を取り出すことは不可能なのだ。不可能である以上、私の世界とあなたの世界は全く同じものではない。解釈された世界はあくまでも個人的な価値観に満ちた世界なのだ。世界が何も解釈なしに取り出せたなら世界は一つと言えるでしょう。しかし世界はそのようには立ち現れない。まして網膜にそのような世界の像を結ぶことはない。プラトンやニーチエが言うように私の世界は「私たちの世界」と信じてる世界に過ぎない。私たちが言葉を交わしコミュニケーションを交わし、指差したものを取り上げることができるのは一つの客観的な世界があるからではない。「私たちの世界」の中にいるからなのだ。それは決して客観的なものではない。私たちが見えてる、私たちが見ようとしてる世界なのだ。ここには一つの客観的な世界はない。誰もが同じに感じ、見てる世界など存在しないのだ。ただしそれを幻想ということでできない。問題はそれが幻想かどうかではない。それさえ取り出すことができない。大切なのは「私たちの世界」がどのように認識れるのかなのだ。分析哲学量子力学が触れている世界は「私たちの世界」から生まれた科学と言っても過言ではない。私たちの世界。私の世界の間にある問題は何か。それが哲学が示すべき世界なのだ。

世界は「世界」の定義によりその数を変える。(3)

世界は「世界」の定義によりその数を変える。一つなのか沢山なのか。一つ以上なのか無限なのか。世界を客観的な「世界」と定義すると一つだと言うでしょう。真理が一つなのだからと言うでしょう。事実は一つだと思っているから。その事実や一つの客観的な世界に近づくために、科学や法律、宗教や常識は更新する。社会という集団の中では世界は複数では困るのだ。事実や真理も本質も一つのでなければ困るのだ。それが社会という集団の大前提なのだ。社会的とはまずそのことを了解することなのだ。人間がおそらく言葉を持つ前に選択した疑いのない前提なのだ。その前提は一つの選択にすぎない。その前提を選んだ人間が生物の頂点にいるのだ。

ただ「世界は一つ」という信念は、いつの時代にも曖昧だった。中世も古代でも人々は神と共にあり神話と共にあった。パラレルワールドでもタイムマシーンでも世界は複数あると考えている様に見えるが基本にあるのは一つの世界なのだ。そのことを前提にして考えている。その意味で複数の世界は科学的想像と言える。SFやバーチャルといったものさえ客観的世界の存在を一つに保っている。誰も疑わないその世界。綻びだらけのその世界を前提にして、そのことを守ろうとしている以上、何も変えられない。哲学のこの土台を「世界は一つ」という信仰から解き放つことがこれからの哲学の課題でありこのブログの目的なのだ。

世界は一つではない。人の数だけある。生き物の数だけある。それがなぜ大前提として一つの世界になったのか。一つになって人間の歴史を作ったのか。私たち精神が自由になるのはこの成り立ちを哲学することで実現すると思う。

私の前に広がる世界は、一つの世界の様に思っている。(2)

私の前に広がる世界は、一つの世界の様に思っている。私の目の前に広がる世界は、あなたの目の前に広がる世界と同じものだと思っている。それは「あなたたち」の見てる世界と同じものだと思っている。そして「私たち」の見ている世界は、1ミリの狂いもなく同じ世界だと思っている。私は「私たち」の見てる世界の中にいると思っている。その世界は、世界が登場する以前から私たちが生まれるより遥か彼方からそこにあったと思っている。それはビッグバンが起こるよりも遥か彼方からそこにあったと思っている。本当だろうか?

その「私たちの世界」の中に私はいる。それを私たちは客観的な世界という。私たちの意思とは無関係に、世界は既にそこにある。そう思っている。私たちに世界は近づくのではなく、私たちが世界に近づいていると思っている。本当だろうか?そんな世界が本当にあるのだろうか?

多くの哲学者は世界を疑うことをしなかった。存在という名のもので世界の存在の仕方を考えた。また「私たちの世界」を知るための技術に翻弄した。知るとは「私たちの世界」を知ることなのだと。「私たちの世界」は一つで真実も一つだという信仰がそこにはあった。それは信仰でしかないのに。

世界は本当に一つなのか。真実は本当に一つなのか。新たな哲学はそんな疑問から生まれた。

 

 

 

 

私は哲学者ではない。 哲学者ではない私は、哲学者より哲学を語ることに自由である。(1)

私は哲学者ではない。 哲学者ではない私は、哲学者より哲学を語ることに自由である。だから私は自由に哲学のことを話そうと思う。

哲学で最も大事なことは、知ることでも疑うことでもない。なぜなら息をするように私たちは考え疑うからだ。さらにそれ以前に、私たちは考え疑う対象の世界を知っている。その世界もまた、息をするように私たちの目前に現れる。空間も時間も息をするように、私たちの世界には必要な要素だと思っている。時間も空間もない世界はありえないと思っている。さらにその世界は私の意志で形を変えるものではないと信じている。世界は一つでしかも客観的と言われるほど私たちの意志を拒絶するものと思っている。本当なのか?

大切なのはこの世界はどの様に形成されているのかということ。どの様にして誕生しているのかということ。その世界の中に私は本当にいるのだろうか?世界とは一体なんなのか?世界は科学が見つめているように本当に一つなのか?世界とは何か?

哲学やアンティークのこと

このブログでは哲学やアンティークのことを書こうと思います。アンティークの買い方や見分け方など、いろんな知識をお伝えします。

哲学は幅広く、分かりやすい哲学を私なりにお伝えします。

哲学の教師ではありませんのでそれだけ自由に哲学のことをお伝えします。

まずは小手調。

世界は一つだと思いますか?それともたくさん。客観的存在だと言われている世界はいくつあるのでしょう。考えませんか?実はとても大切なことなのです。